2012年1月11日水曜日

使鐵印 牧駒犢

巻三
慶雲四年三月甲子給鐵印于攝津伊勢等廿三國使印牧駒犢

慶雲四年三月甲子。
給鐵印于攝津伊勢等廿三國。
使印牧駒犢。

七〇七年三月廿六日。
攝津伊勢等廿三國に鐵印を給す。
印をして駒犢を牧せしむ。

・ 二十三の国に官牧が設けられていること。
・ 鉄印を捺して官有であることを明示していること。
・ 印の捺された馬牛を管理することを「牧す」と言っていること。
・ 犢が仔牛を意味することから駒は仔馬であることが確実であること。


牧宰とは勝れて所有と管理に関わることばであると知る。
牧(場)とは囲い込んで家畜を管理するの意なのである。

犢、駒の時に鉄印の焼印を捺してしまって管理して育てるのを牧すというのだ。
放し飼いなので烙印が入っていないと判別が手間がかかる。

同時代の万葉集に「駒」と出てくるときは仔馬であることを忘れないようにしなくてはいけない。







2012年1月10日火曜日

文武元年八月庚辰詔曰

巻一

文武元年八月庚辰

詔曰現御神止大八嶋國所知天皇大命良麻止詔大命乎集侍皇子等王等百官人等天下公民諸聞食止詔高天原尓事始而遠天皇祖御世御世中今至麻弖尓天皇御子之阿礼坐牟弥繼繼尓大八嶋國將知次止天都神乃御子隨母天坐神之依之奉之隨聞看來此天津日嗣高御座之業止現御神止大八嶋國所知倭根子天皇命授賜比負賜布貴支高支廣支厚支大命乎受賜利恐坐弖此乃食國天下乎調賜比平賜比天下乃公民乎惠賜比撫賜牟止奈母隨神所思行佐久止詔天皇大命乎諸聞食止詔是以百官人等四方食國乎治奉止任賜幣留國々宰等尓至麻弖尓天皇朝庭敷賜行賜幣留國法乎過犯事無久明支淨支直支誠之心以而御稱稱而緩怠事無久務結而仕奉止詔大命乎諸聞食止詔故乎如此之状乎聞食悟而款將仕奉人者其仕奉礼良牟状隨品品讃賜上賜治將賜物曾止詔天皇大命乎諸聞食止詔

仍免今年田租雜徭并庸之半又始自今年三箇年不收大税之利高年老人加恤焉又親王已下百下百官人等賜物有差令諸國毎年放生


六九七年八月十七日。
詔曰。
あきつ御神と 大八嶋國 知ろしめす 天皇が 大命らまと 詔りたまふ大命を
集い侍る 皇子ら 王ら 百官人ら 天下公民、諸々 聞し食せと 詔る
高天原に 事始りて 遠き 天つ 皇祖の 御世々々 中今に 至るまでに
天皇が御子の あれ坐さむ いや繼々に 大八嶋國 知ろしめすべしと
天つ神の御子 隨もて 坐す 神の 依さし奉りしまま 聞看來し
天つ日嗣 高御座の 業と あきつ御神と 大八嶋國 知ろしめす 倭根子天皇の
命 授け賜ひ 負ひ賜ふ  貴き 高き 廣き 厚き 大命を 
受け賜はり 恐み坐して  この食國 天下を 調のへ賜ひ 平らげ賜ひ
天下の公民を 惠み賜ひ 撫で賜はむなもと 
神所思行さくと 詔る
天皇が 大命を  諸々 聞こし食せと 詔る
ここに  百官人ら 四方つ食國を 治め奉れと 任せ賜へる 國々 宰らに 至るまでに
天皇 朝庭 敷き賜ひ 行賜へる 國の法を過犯事無く 明き 淨き 直き 誠之心もちて
御稱稱て 緩み怠る事無く 務め結て 仕へ奉れと 詔る 大命を
諸々 聞せ食せと 詔る 故を 如此之状を 聞し食し 悟りて 款將仕奉人は
其の 仕へ奉礼らむ状の隨に 品品 讃め賜ひ 上げ賜ひ 治め賜ふべき物ぞと 
詔る  天皇の大命を 諸々 聞し食せと 詔る


仍りて
免今年田租雜徭并庸之半       今年の田租、雜徭、并て庸之半を免す。
又始自今年三箇年不收大税之利   又、今年より始めて三箇年、大税之利は収めず。
高年老人加恤焉             高年の老人に恤を加う。
又親王已下百下百官人等賜物有差 又、親王以下百官人等に物を賜うこと差有り。
令諸國毎年放生
              諸國をして年毎に放生せしむ。

所謂宣命体の読み方は難しい。
当時のヤマト言葉と漢字語の混交であり、
文言の日本語が形成されていくとば口の言語表現の特例だからだ。

集侍を「うごなはれる」と訓むなど言語史的には正しいのかどうか分からない。
ただ歴史的文献としての必要上の解読に大きな差は生じないなら
読みやすく読むことも大切だ。その上で歪みが問題なら正せばいい。
「集い侍する皇子ら」と「集侍はれる皇子等(うごなはれるみこたち)」との差がそんなに大きいだろうか。
通常の漢文読みを基本に和語を適切に入れて全体をまず理解できることが第一目標だ。

「天都神乃御子 隨母天坐 神之依之奉之隨 聞看來此天津日嗣高御座之業」

天神の御子 随母 天坐 神の依させ奉りし隨(まま)に 聞看來此 天つ日嗣ぎ高御座の業

天神の御子ながらも 天にいます神の依さし奉りしままに「聞看來」 (宣長の追加) この天つ日嗣ぎ高御座の業

この部分もそうだが宣長国学を漢文解読に持ち込んだままの国史大系本は問題が多い。
それを十分に批判的に乗り越える視座が確立しているのか岩波版、小学館版でも確認できない。
そういう意味で完全に依拠していい校訂版はないのかも知れない。



あきつみかみと おおやしまぐに しろしめす すめらが おほみことらまと のりたまふおほみことを
うごなはれる みこたち きみたち もものつかさたち あめのしたの おほみたから もろもろ きこしめさへと のる
たかまのはらに ことはじまりて とほき すめみおやの みよみよ なかいまに いたるまで 
すめらがみこの あれまさむ いやつぎつぎに おほやしまぐに しらさむつぎてと
あまつかみのみこながらも  あめにいます かみの よさしまつりしままに
あまつひつぎ たかみくらのわざと あきつみかみと おほやしまぐに しろしめす やまとねこすめらみことの
さずけたまひ おひたまふ  たふとき たかき ひろき あつき おほみことを 
うけたまはり かしこみまして  このおすくに あめのしたを ととのへたまひ たひらげたまひ
あめのしたの おほみたからを めぐびたまひ なでたまはむなもと かむながらおもほしめさくと のりたまふ
すめらが おほみことを  もろもろ きこしめさへと のる
ここに  もののつかさたち  よものをすくにを をさめめまつれと まけたまへる くにぐに みこともちどもに いたるまでに
すめらがみかどの  しきたまひ おこなひたまへる くにののりを あやまち おかすことなく あかき きよき なほき まことの こころをもちて
いやすすみにすすみて たゆみ おこたることなく つとめ しまりて つかへまつれと のる おほみことを
もろもろ ここしめさへと のる かれを かくのさまを きこしめし さとりて いそしく つかへまつらむ ひとは
その つかへまつらむ さまのままに しなしな ほめめたまひ あげげたまひ をさめたまふべきものぞと 
のりたまふ  すめらのおほみことを もろもろ きこしめせと のる

2011年12月12日月曜日

光明皇太后の一周忌の記事

巻廿三 天平宝字五年六月庚申甲寅朔設皇太后周忌齋於阿弥陀淨土院其院者在法華寺内西南隅爲設忌齋所造也其天下諸國各於國分尼寺奉造阿弥陀丈六像一躯脇侍菩薩像二躯

巻廿三
天平宝字五年六月七日。
庚申。甲寅の朔。
皇太后の周忌齋を阿弥陀淨土院に設く
其の院は法華寺内の西南隅に在り
忌齋を設くるが爲に造れる也。
其れ天下諸國の各々の國分尼寺に於て、
阿弥陀の丈六像一躯、脇侍の菩薩像二躯を造り奉らしむ


天平宝字五年六月
辛酉於山階寺毎年皇太后忌日講梵網經捨京南田卌町以供其用又捨田十町於法華寺毎年始自忌日一七日間請僧十人礼拜阿弥陀佛 

天平宝字五年六月八日。

山階寺に於て毎年皇太后の忌日に梵網經を講ぜしむ。
京南の田町を喜捨し以って其用に供す
又、田十町を喜捨して法華寺に於て
毎年始、忌日より一七日間、
僧十人を請い阿弥陀佛を礼拜せしむ。 


六月七日が崩じた日である。忌日。
天平宝字四年六月乙丑己未朔(六月七日)天平應眞仁正皇太后崩。

周忌の齋会式を阿弥陀淨土院に設けたこと。

その院は
法華寺内の西南隅に在ったこと。

それは「
忌齋を設くるが爲に造れる」だということ。

普通に読めば、一周忌の斎会の機会に
阿弥陀淨土院を造営し斎会を整えた、と解される。
だが仮設の院ではないと思われるし、法華寺が光明子が不比等から受け継いだものであるとすれば光明子の生前からあった建物を阿弥陀浄土院として荘厳したと考えたらどうだろうか。
そのほうが故人との関係で自然な有り様と思うのだが。

諸国の国分尼寺に丈六の阿弥陀三尊(阿弥陀と脇侍の二菩薩)像を作らせることについては
各地で造佛できる条件があったか。できる土地柄の処もあったろうし、できない土地柄ならば制作は都で行って輸送したのだろう。後者が多かったのではないのだろうか?

山階寺は興福寺である。
「梵網經を講じる」「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」のことか。菩薩戒を説くので女人にも功徳ありとの意図か?
梵網經は二種類あって小乗仏教の梵網經は外道批判などが入っている。多分大乗仏典の方だろう。

喜捨というのはここでは何を指しているのだろう。

国家による施入か?

阿弥陀浄土院が皇太后の斎会の機関として整えられていくこと。
それは間違いない。


葬祭の面から見た皇后・皇太后の扱いは細かく観察し読み込むことも勉強になるかと思う。


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2011年12月2日金曜日

隼人を朝堂に饗す、其の儀常のごとし

乙巳饗大隅薩摩隼人等於朝堂其儀如常天皇御閤門而臨観詔進階賜物各有差


延暦二年(七八三)正月乙巳(廿八日)
饗大隅薩摩隼人等於朝堂。

其儀如常。
天皇御閤門而臨観。
詔進階賜物各有差。

乙巳(廿八日)
大隅・薩摩の隼人等を朝堂に於て饗す。
其儀は常の如し。
天皇、閤門に御して臨観す。
詔して階を進め物を賜うこと各々差有り。


七八三年一月廿八日
正月の行事の最後を飾る儀式として行われたのだろうか。
大隅、薩摩、両地域の隼人を参内させて饗したのである。

儀式に参加して呪声等の役目を果たす上番隼人ではなく
両地域の官位をもつ族長たちであろう。


この記事で気になるのは順序だ。
朝堂に饗したと記して其の儀は常のごとしと言う。
天皇閤門に御して臨観すというのがその後か?
進階賜物は何時なのか。


進階賜物のことは追記的に補足されるので問題ない。
進階賜物は饗に先後に行われるものだろう。
問題は
天皇閤門に御して臨観す が
何時なのか?


饗に先だっての儀式としておこなわれたものか。
そのとき天皇は閣門に出御してその儀式の様子を臨み観(み)たことになるのだが。
そしてそれを
其儀は常の如し と評価(報告)している。


隼人たちは閣門に御す天皇の前で何かの儀礼を行って
それを天皇が観ることに意義があったのだ。
臨観すという言葉にその有意義さが表明されている。


それはどのようなものだったか。
わからない。
隼人舞いのような芸能性を帯びたものか。
異人的武装と吠声のような呪性を帯びたものか。
あるいはまた別の種類のものか。


ただそれが特記に値しない通常のものと見なされたから
其の儀は常のごとしと記されたのだろう。


大伴旅人が征旅についた時代から時を経て隼人の社会も
律令制度の中に定着してきているということの
これは証ではあるだろうと思う。


宿題:
聖武天皇が恭仁京建設のさなか泉川(木津川)の南岸で校猟を観たという記事を思い出した。
天皇が観るという行為をしている場面とそれを観という字で表記することの意味はどのようなものか。
ここでも天皇は「閣門」という定められた(選定された?)場所へ御して観ている。


校猟を観るというのも定まった場所から観たのでなけらば見えないはずだ。
観ることに意義があるのなら見えない場所には御しはしない。


観という字(漢語)はどう使われているのか。
俯瞰的に観ることが含まれていないか。
そのことが気になっている。
国見という行事もまた俯瞰的だからだ。



2011年11月9日水曜日

秋篠という土地

癸夘。
少内記正八位上土師宿祢安人等言。
臣等遠祖野見宿祢。造作物象。以代殉人。垂裕後昆。生民頼之。
而其後子孫。動預凶儀。尋念祖業。意不在茲。
是以土師宿祢古人等。前年因居地名。改姓菅原。
當時安人任在遠國。不及預例。
望請。土師之字改爲秋篠。
詔許之。
於是。安人兄弟男女六人賜姓秋篠。


延暦元年(七八二)五月 癸夘(廿一日)。
少内記 正八位上 土師宿祢安人らの 言上するに(曰く)
臣等が遠祖 野見宿祢、物象を造作し、以って殉人に代う。裕ろく後に昆を垂れ、生民之を頼る。
而るに其の後は子孫 動やく凶儀に預れり。尋く祖業を念えば 意は茲に不在るなり。
是を以って 土師宿祢 古人ら  前つ年 居地の名に因って姓を菅原と改めき。
當時 安人 任じて遠國に在り。預例に不及りき。
望み請うらくは。土師之字を改めて秋篠と爲さん、と。
詔して之を許す。
是に 安人 兄弟 男女 六人に秋篠の姓を賜う。


桓武の時代が始まったころ。
土師宿祢古人ら同氏族の者に遅れて安人は改姓を願い出て許された。
土師氏はここに居住地をもとに名乗った菅原と秋篠に別れた。
といっても奈良市にある秋篠の地と菅原の地はほとんど同じ地である。
隣接というより同一と言っていいくらいだ。
そのことは同一の地域に暮らす同じ氏族の分岐が既成事実だったことを示すように思われる。
安人は菅原という姓でもよい筈だろうから。しかし敢えて秋篠姓を願った。
ここに「家」の独立があるのだろう。そこにその「家」の政治的・経済的等の差異がもたらす分岐がみえる。


任地が離れていて「預例に及ばざりき」は口実の類であろう。
古人たちの家が猟姓運動に成功したとき彼の家は置き去りになった。
というより同姓の古人たちから別扱いされていたのであろう。
確かに任地遠国であれば運動に参加は出来かねたのは確かだとしても。


ここに表れているもう一つの問題は
土師氏という呼称が負のベクトルを帯びるものに変わってしまったことである。
もともと古墳の造営にかかわることは光栄に満ちた家業であったはずであり
それが野見宿祢の伝承とともに土師氏の存在を支えてきた。
しかし王権の継承に関わる重大な事業としての墳丘造営の意義が失われ
律令制の下で土師氏の家業は葬送を凶事とする思想に取り囲まれてしまっていた。
祖先の功業をひそかに誇りつつも家業はすでに技術官から文官へと変わっていた。
改姓の時機はとうに来ていたが、なかなか実現しなかったのであろう。


現在の秋篠の地名が賜姓により生じたかというとそうではないだろう。
宝亀十一年(780年)六月戊戌(五日)に秋篠寺の名が続日本紀にある以上、その土地の名を姓としたと考えるべきだから。


秋篠寺は林に囲まれたような静かな寺である。
秋篠宮も自らの呼称の由来を尋ねて来訪している。
伎芸天の周りに漂う視えない音楽を感じられる立ち位置を
探して見つけた日を懐かしく思い出す。

2011年10月18日火曜日

文武元年(六九七)十月壬午
《甲子朔十九》 冬十月壬午。陸奥蝦夷貢方物。
陸奥の蝦夷、方物を貢す。 

文武元年(六九七)十二月庚辰
《癸亥朔十八》 十二月庚辰。賜越後蝦狄物。各有差。
 越後の蝦狄に物を賜うこと、各々差有り。

 文武二年(六九八)六月壬寅
《十四》 壬寅。越後國蝦狄獻方物。
 越後國の蝦狄、方物を献ず。 

文武二年(六九八)十月己酉
《廿三》 己酉。陸奥蝦夷獻方物。
陸奥の蝦夷、方物を獻ず。 

文武三年(六九九)四月己酉
《乙酉朔廿五》。 夏四月己酉。越後蝦狄一百六人賜爵有差。
越後の蝦狄一百六人に爵を賜うこと差有り。 

和銅三年(七一〇)正月丁夘
《十六》 丁夘。天皇御重閣門。賜宴文武百官并隼人蝦夷。 奏諸方樂。
天皇、重閣門に御して、文武百官并びに隼人、蝦夷に宴を賜う。 諸々の方樂を奏す。

 從五位已上賜衣一襲。 隼人蝦夷等亦授位賜祿。各有差。
從五位已上に衣一襲を賜う。 隼人、蝦夷等に亦た位を授け祿を賜うこと各々差有り。

和銅三年(七一〇)四月辛丑
《廿一》 辛丑。陸奥蝦夷等請賜君姓同於編戸。許之。
陸奥の蝦夷等、君姓を賜わり編戸を同にせんことを請う。之を許す。 

天平宝字元年(七五七)三月乙亥
《廿七》 乙亥。勅。自今以後。改藤原部姓。爲久須波良部。君子部爲吉美侯部。
 勅。今自り以後、藤原部の姓を改めて久須波良部と爲し、君子部は吉美侯部と爲す。 

神亀元年(七二四)二月壬子
《廿二》 壬子。天皇臨軒。授正四位下六人部王正四位上。 (中略)從七位下大伴直南淵麻呂。從八位下錦部安麻呂。无位烏安麻呂。外從七位上角山君内麻呂。外從八位下大伴直國持。外正八位上壬生直國依。外正八位下日下部使主荒熊。外從七位上香取連五百嶋。外正八位下大生部直三穗麻呂。外從八位上君子部立花。外正八位上史部虫麻呂。外從八位上大伴直宮足等。獻私穀於陸奧國鎭所。並授外從五位下。

天皇臨軒。正四位下の六人部王に正四位上を授く。(中略))從七位下大伴直南淵麻呂。從八位下錦部安麻呂。无位烏安麻呂。外從七位上角山君内麻呂。外從八位下大伴直國持。外正八位上壬生直國依。外正八位下日下部使主荒熊。外從七位上香取連五百嶋。外正八位下大生部直三穗麻呂。外從八位上君子部立花。外正八位上史部虫麻呂。外從八位上大伴直宮足等は陸奧國鎭所に私穀を獻ず。並びて外從五位下を授く。



2011年9月27日火曜日

白猪屯倉と白猪史胆津 船史王辰爾の周辺

三年冬十月戊子朔丙申 遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津。
戊戌 詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。


遣蘇我馬子大臣 於吉備国 増益白猪屯倉与田部 即 以田部名籍 授于白猪史胆津。
蘇我馬子大臣を 吉備国に遣して 白猪屯倉と田部を 増益す。即ち 田部の名籍を以て 白猪史胆津に授く。


記事の内容は蘇我馬子と白猪史胆津を吉備の国の白猪屯倉に派遣したが、それはそこにある田部を「名籍」を使って増益するのが狙いだったというのだ。
これを記録としてでなく伝承としてとらえれば、
取り仕切った責任者は蘇我氏の馬子、執行責任者は帰化人の白猪史の胆津。
増益の手段は「名籍」。これは田籍を意味するのだろう。
計測と記帳による農産管理。マネジメントが導入されたのであり、文字の役割が拡大されたことでもある。
土木治水のことも含まれていよう。


白猪屯倉のもつ意味は政治的経済的軍事的拠点であろうが、そこを帰化人技術官僚を握った新興の蘇我氏が掌握したことをも示しているのだろうか。


この記事は大阪平野の河内との関連でもまた出てくるはずだ、記憶違いでなければ。


同じ頃に
詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。
詔して、船の史(ふひと)王辰爾の弟、牛に姓(かばね)を津史(つのふひと)と賜ふ。


賜姓は事実かどうかは不明だが、「王」氏が「船首の王」氏となり「津史」氏という職務に合致した称号を得たことは上記の白猪史と並び文書を軸にマネジメントする事務が必須とされる状況を示しているだろう。
出土した墓誌銘に「船首王後」とあり、船首(ふねのおびと)の「王後」と読んだのだろう。


白猪史は王辰爾の兄である王味沙が初めとされ、胆津はその子である。
王辰爾は船史、兄の王味沙の子、胆津は白猪史、弟の王牛(?)は津史。一族が経済の根幹の事務についている。
この前後する二つの記事を繋ぐのは帰化人氏族王氏である。どちらも同じ家伝から採られているとみてよい。


王辰爾については有名な伝承がある。
敏達元年夏五月紀
丙 辰 天皇執高麗表疏 授於大臣 召聚諸史令読解之 是時諸史於三日内皆不能読 爰有船史祖王辰爾 能奉読釈 由是 天皇与大臣倶為讃美曰 勤乎辰爾 懿哉 辰爾 汝若不愛於学誰 能読解 宜従今始近侍殿中 既而詔東西諸史曰 汝等所習之業何故不就汝等雖衆不及辰爾 又高麗上表疏書于烏羽 字随羽黒既無識者 辰爾乃蒸羽於飯気以帛印 羽 悉写其字 朝庭悉之異